大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所 平成2年(ワ)10679号 判決

原告

A

B

C

原告ら訴訟代理人弁護士

大原誠三郎

塚越敏夫

被告

東京都

右代表者知事

鈴木俊一

右指定代理人

安部誠

外一名

主文

原告らの請求をいずれも棄却する。

訴訟費用は、原告らの負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告Aに対し、金二五三〇万三〇二三円、同B及び同Cに対し、各金七五〇万円ずつ並びに右各金員に対する平成二年九月八日から各支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は、被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  主文同旨

2  担保を条件とする仮執行免脱宣言

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  当事者

(一) 被告は、東京都墨田区江東橋四丁目二三番一五号において「都立墨東病院」(以下「被告病院」という。)を開設経営している。

(二) 原告A(以下「A」という。)は、平成二年六月八日、被告病院において死亡した訴外D(大正九年二月九日生、以下「D」という。)の妻であった者であり、原告B(以下「B」という。)及び同C(以下「C」という。)はいずれもDの子である。

2  本件事故発生の経緯

(一)(1) Dは、平成二年四月(以下、特に断らない場合は、平成二年における月をいう。)末日ころから、体調が悪くなったため、五月初め、訴外竹中外科医院において訴外竹中房義医師の診察・検査を受けたところ、より精密な検査が必要であるとされ、同医師から被告病院を紹介されて、同月一七日、被告病院に入院した。

(2) 被告は、Dに対し、右入院に際し、Dに病的異常症状がある場合、その病名及び原因を的確に診断すること、症状に応じて投薬、手術等の適切な治療行為を行うこと並びに院内感染、食事・入浴・睡眠その他日常の起居の際にベッドから墜落する等の事故や病院の火災等を発生させないように、また、Dが自殺に及ばないように施設管理上配慮することをそれぞれ約した(以下「本件診療契約」という。)。

(二) Dは、入院後、直ちに一般検査を受けた結果、直腸癌と診断され、同月二五日、被告病院の訴外松尾医師及び同北野医師の執刀で手術を受け、肛門から二〇センチメートルの所にあった患部の前後約一〇センチメートルにわたり腸を切除した。

(三) Dは、手術後の状態に異常はなかったが、同月二八日夜、手術の合併症として、急性又は一時的な精神障害を来し、午後一〇時四五分ころから約二〇分間、病院内を徘徊した。その間、Dの所在が不明となり、看護婦が手分けして病院内を探した。右徘徊の際、Dの腹部手術創の縫合箇所が破れ(右事実は、同月三一日の午前一〇時ころに松尾医師が回診した後、原告らに知らされた。)、また、左側頭部耳上付近に、階段その他の物の縁にぶつけたために生じたと推認される約一二ないし一五センチメートル大の打撲傷を負った。

(四) その後、Dの容体は次第に悪化し、同月三一日ころには、高熱が持続した。六月二日午後八時三〇分ころには、容体が急変し、血圧は急激に低下して不整脈が発生し、脱水症状に陥った。同月四日、容体は深刻さを増し、五日には急性腎不全を起こし、人工透析を受けた。

(五) Dは、敗血症(細菌に感染し、右細菌が血中に流出して増殖し、悪寒戦慄、発熱、関節痛、発汗、頻脈などの全身症状を起こすに至った状態。以下「本件敗血症」という。)に罹患し、これを原因として、さらに汎発性血管内凝固症候群(disseminated intravascular coagulation。小血管において凝固因子と線溶酵素の調整しがたい活性化に引き続いて起こる出血徴候。以下「DIC」という。)が発症し、六月八日午前二時二一分、死亡した。直接死因は、DICであった。

3  Dの死亡原因

Dが敗血症に罹患した原因は、いわゆる院内感染によるものであり、前記2(三)のとおり、手術の僅か三日後に病棟内を歩き回ったため、又はその間に転倒するなどしたため、まだ完全には癒着してはいなかった腹部手術創の縫合箇所が破れ、そこから被告病院内に存在していた細菌が侵入したためである。仮に、手術創からの細菌侵入ではないとしても、細菌が、右転倒の際に受けた傷害部位から侵入し、若しくはDの鼻咽喉に定着して胃管などを通して侵入し、またはその他の経路によってDの体内に侵入したためである。

4  被告の責任原因

(一)(1) 本件診療契約における履行補助者たる被告病院の医師及び看護婦らは、適切な治療をすべき義務の一つとして、手術後の患者の症状の推移を観察し、異常な事態が生じることを回避すべき義務及び施設管理上万全の配慮をすべき義務の一環として、細菌が病院内で患者の体内に入ることを阻止すべき義務がある。

(2) 手術後の合併症の一つとして、患者に精神障害が発症するおそれがあることは周知の事実であり、特に、七〇歳以上の老人の場合、麻酔覚醒後二四時間以降に抑鬱症状が出やすいとされている。Dは、手術を受けた平成元年五月時点で七〇歳であり、主治医の松尾医師も、手術前日の五月二四日、原告らに対し、「手術後一時的にぼけることもある。」と説明しており、被告病院の医師及び看護婦らは、精神障害発症のおそれを十分認識していた。

また、同月二五日及び二六日は、Dの家族がベッド脇で寝ずの看病をしたが、二七日夕方、看護婦が、被告病院は完全看護体制であるとして、家族の付添いをやめさせ、もって自らDの看病に尽くすことを引き受けていた。

したがって、被告病院の医師及び看護婦らとしては、Dの手術後、同人の症状の推移を観察して、右精神障害発症のおそれのある要注意患者のチェックリストを慎重に作成し、巡視などを励行する義務があった。

(3) しかるに、被告病院の医師及び看護婦らはこれらを怠り、Dの精神障害の発症を早期に発見して同人が病院内を徘徊することを防止しなかったため、右徘徊中に開いた手術創から病院内の細菌が侵入して敗血症を引き起こし、さらにDICに罹患して死亡するに至ったものである。

(二) 仮に、細菌が手術創から侵入したものではなく、その他の経路によって侵入したものであったとしても、右(一)と同様、施設管理上万全の配慮をし、およそ病院内で細菌が患者の体内に入ることを阻止すべき義務があるのに、右医師及び看護婦らがこれを怠ったため、Dの体内に細菌が侵入したものである。

(三) また、本件敗血症の起因菌が、後記三の被告の主張のとおり、MRSAであるとしても、MRSAはDの手術創若しくは打撲傷から侵入し、又は院内常在菌としてのMRSAが、Dの鼻咽喉に定着し、胃管などを通して若しくはその他の経路で侵入したのであって、MRSA感染症の罹患原因は院内感染である。そして、前記(一)と同様、被告病院の医師及び看護婦らは、施設管理について万全の配慮をし、病院内で、細菌が患者の体内に入ることを阻止すべき義務に基づき、まずMRSAを院内に持ち込むことを防止し、次に病院内空中落下細菌や医療従事者などのキャリアの鼻咽喉・手指などのチェック、各種医療器具のMRSAの分布状況を把握などによって、MRSAの汚染を調査し、消毒剤による手洗い、マスク着用などの基本操作の厳守、さらにMRSA感染症例者の隔離などによって、患者への感染を予防すべき義務があった。しかるに、被告病院の医師及び看護婦らは、これらの義務を怠ったため、Dは、院内感染によってMRSA感染症に罹患し、敗血症を引き起こしたものである。

(四) よって、松尾医師、北野医師及び看護婦らを履行補助者として、Dの治療に当たらせていた被告は、債務不履行として、Dの被った損害及び右債務不履行と相当因果関係にある原告らの損害を賠償する義務がある。

5  損害

(一) 慰謝料

(1) D本人の慰謝料 三〇〇〇万円

Dの精神的損害に対する慰謝料は、左記の理由により、三〇〇〇万円が相当である。

ア 地位の非互換性

医療過誤は、交通事故の場合と異なり、常に医療という重大な社会的役割を独占する医師・医療機関によって惹起され、被害者は、原則として加害者の立場に立ちえない。

イ 医療の社会的使命と責任

医療とは、人間の健康の維持増進と障害された健康の回復を本来的使命とする。また、医師・医療機関は、医療という専門性を独占している。したがって、医療過誤は、このような医療の本来的使命に反する重大な矛盾であって、医師・医療機関には、右の独占的な本来的使命に見合った重い責任が課されてしかるべきである。

ウ 医療過誤の強度な背信性

患者は、医師・医療機関に対する強度の信頼に基づき、自らの生命・健康を無条件に委ねるというのが現実であるところ、医療過誤は、かかる信頼を根底から破壊する背信行為である。

エ 医療の収益性

医療過誤は、医療という収益を予定された行為の中から生ずるものである。

オ 過失の重大性

本件での被告の過失は、前記4のとおりであり、重大である。

(2) 相続

前記(1)の慰謝料について、法定相続分にしたがい、原告Aは、一五〇〇万円を、同B及び同Cは各七五〇万円をそれぞれ相続した。

(二) 葬儀費用 四八〇万三〇二三円

Dの葬儀費用は四八〇万三〇二三円を要し、その全額を原告Aが負担した。

(三) 弁護士費用

原告らは、本訴の提起遂行を本件訴訟代理人らに委任し、原告Aにおいて、着手金二〇〇万円、及び報酬として前記(一)(二)の合計額の約一割に当たる三五〇万円を支払う旨約した。

6  よって、いずれも債務不履行に基づき、原告Aは、相続した慰謝料額、葬儀費用及び弁護士費用の合計額二五三〇万三〇二三円、同B及び同C各自は、それぞれ相続した慰謝料額七五〇万円並びに右各金員に対する被告に対する訴状送達の日の翌日である平成二年九月八日から各支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

二  請求原因に対する認否及び反論

1  請求原因1の(一)、(二)はいずれも認める。

2  同2(一)(1)、(2)及び(二)はいずれも認める。

(三)のうち、Dは、手術後の状態に異常はなかったこと、五月二八日午後一〇時四五分ころから約二〇分間、所在が不明となり、看護婦が手分けして院内を探したこと、及び同月三一日午前一〇時ころに松尾医師が回診した後、Dの腹部手術創の縫合箇所が破れていることを原告らに知らせたことは認め、その余は否認する。

(四)及び(五)はいずれも認める。

3  同3は否認し又は争う。

4  同4(一)(1)は認める。

(2)のうち、本件事故当時、手術後の合併症の一つとして、患者に精神障害が発症するおそれがあることが周知の事実であり、特に、七〇歳以上の老人の場合、麻酔覚醒後二四時間以降に抑鬱症状が出やすいとされていたこと、Dが手術を受けた平成元年五月時点で七〇歳であったこと、主治医の松尾医師が、手術前日の五月二四日、原告らに対し、「手術後一時的にぼけることもある。」と説明していたこと、及び同月二五日にDの家族がベッドに付き添ったことはいずれも認め、その余は否認し又は争う。

(3)は否認し又は争う。担当看護婦は、午後九時三〇分ころから、Dの不穏を認め、より十分に監視することができるようにDの病室の変更について同僚と相談している僅かの間に、Dが病室から出てしまったのであり、義務の違反はない。

(二)は争う。

(三)のうち、本件敗血症の起因菌について、それがMRSAである蓋然性が高いとの限度で認め、その余は争う。

(四)は争う。

5  同5は争う。

三  被告の主張

1  本件敗血症の原因

(一) 六月四日に採取したDの喀痰から、多剤耐性のメチシリン耐性黄色ブドウ球菌(methicillin-cephem-resistant Staphylococcus aureus。以下「MRSA」という。)が検出された。したがって、本件敗血症の起因菌は、MRSAである蓋然性が最も高いと考えられるが、Dの血液中からは、右菌は検出されておらず、断定はし難い。

(二) MRSA又はその他の細菌によって本件敗血症が発症した機序としては、院内感染等ではなく、メチシリン感受性黄色ブドウ球菌(以下「MSSA」という。)がMRSAへと変化するなどの体内非耐性菌の耐性化、又は免疫力の低下を契機とする体内常在細菌の増殖によるものである。

(1) まず、被告病院に入院する前については、Dは、竹中外科医院で施行した上部消化管の内視鏡検査及び造影検査の後、バリュウム腸閉塞となり、その際、右閉塞部分が損傷され、そこから細菌が侵入した可能性もあるが、入院後手術までの八日間に感染症状は見られなかったのであるから、潜伏期間から判断して、右可能性は否定される。また、入院後手術前、直腸視診、大腸内視鏡検査、血液検査等の諸検査をしたが、いずれも検査部位の損傷や細菌の侵入は想定し難い。そして、手術の際は、被告病院の他の開腹手術と同様に消毒をしており、手術室内の落下細菌や手術器具の付着細菌による感染、医師及び看護婦らからの感染はいずれも考えられない。

(2) さらに、手術創が開したのは、五月三〇日深夜からであって、しかも開した部分は、Dの死に至るまで化膿していなかった。したがって、右開部分から細菌が侵入したことはありえない。また、原告主張のDの左側頭部の傷は、打撲傷ではなく、真皮にも達しない浅い傷であり、かつ、かさぶたが見られ、治癒していたともいえるのであるから、右傷からの細菌侵入もありえない。

(3) 以上の点に、前記(一)のとおり、MRSAが検出されたことからすれば、①手術前からの常在細菌であるMSSAが、術後の抗生物質の投与により短期間で薬剤耐性を備え、MRSAへと変化した、又は、②MRSA感染症も、他の細菌におけると同じく、何らかの原因による体力(免疫力)の低下を契機として細菌が増殖する結果、発症するものであり、入院前から存在したDの体内常在細菌のMRSAが増殖した可能性が考えられ、Dは、そのいずれかの機序によってMRSA感染症に罹患したものである。

2  適切な治療の施行

被告の診療契約上の責任の成否は、被告病院の医師らが、診療当時のいわゆる臨床医学の実践における医学水準に基づき、危険防止のため実験上必要とされる最善の注意義務を果たしたか否かによって判断すべきものであるところ、被告病院の医師らは、医学知識に基づき、抗生物質によるMRSAへの変化の危険性を予測して、右危険性の少ない第二世代セフェム系等の抗生物質を使用するなどしたのであって、体内常在細菌であるMSSAがMRSAに変化してMRSA感染症が発症したとすれば、それは避けることができなかった不可抗力による事態であるというべきである。

その他、Dの入院から死亡退院に至るまでのすべての段階において、被告病院の医師及び看護婦らは、適切な措置を採っており、右注意義務を尽くし、本件診療契約上の義務を果たしたものである。

四  被告の主張に対する認否・反論

1  被告の主張1(一)は認める。

(二)については、(1)のうち、被告病院に入院する前に竹中外科医院で施行した上部消化管の内視鏡検査及び造影検査の後、バリュウム腸閉塞となったことは認め、その余はいずれも否認し又は争う。被告は、MSSAがMRSAへ変化したと主張するが、それはきわめて稀な場合であり、本件も他の多くの場合と同様に、院内感染である。

2  同2は争う。

第三  証拠〈省略〉

理由

一請求原因1(当事者)、同2(一)(1)(Dの入院の経緯)及び(2)(本件診療契約)、同2(二)(手術の施行)、同2(四)(Dの容体の悪化)、同2(五)(敗血症の意義及び本件敗血症の発症・DICによる死亡)は、いずれも当事者間に争いがない。

二Dが本件敗血症に罹患し、これを原因としてDICが発症し、それによって死亡したことは、前示一のとおりであるから、まず、本件敗血症の発生原因・機序について検討する。

1  病棟徘徊中の感染について

(一)  原告は、Dが、五月二八日午後一〇時三〇分ころから約二〇分間、病棟を徘徊した間に、手術創の傷口が開き、そこから細菌が侵入したと主張するところ、Dが同日午後一〇時三〇分ころから約二〇分間所在が不明となったことは当事者間に争いがないが、その間にDの手術創の傷口が開いた事実を認めるに足りる証拠はなく、かえって、〈書証番号略〉及び証人松尾聰の証言(以下「松尾証言」という。)によれば、五月二九日午前九時三〇分ころ、松尾医師らが回診した際は、Dの手術創に開、異常及び細菌感染の徴候は認めなかったこと、同月三〇日午後七時三〇分ころの包帯交換の際も手術創の開はなく、翌三一日午前二時三〇分ころの包帯交換の際には手術創の中央部分に開が存したことがそれぞれ認められ、右事実によれば、Dの手術創の開は、同月三〇日午後七時三〇分以降に生じたと認められるから、原告の右主張は、その前提を欠き、理由がない。

なお、右開の前後を含めて手術創から細菌が侵入した可能性について判断するに、松尾証言によれば、一般に手術創、傷口等からの細菌感染があれば、その感染部は化膿するものであると認められるところ、Dの手術創が化膿していたと認めるに足りる証拠はなく、かえって、右証言によれば、松尾医師らにおいてDの手術創に化膿の発生を認めていなかったことが認められるのであって、結局、Dの右手術創から細菌が侵入して細菌感染したとは認められない。

(二)  また、Dの左側頭部の傷については、〈書証番号略〉によれば、六月七日に診察した真栄城医師がDの左側頭部に四、五日前に生じたと思われる傷を認めたこと、右傷は、長さ約一〇センチメートルの真皮に達しない浅い傷であり、血腫・膨張は見られず、かつかさぶた様のものが付着したものであることが認められるけれども、右傷がDが五月二八日に病院内を徘徊した際に生じたものと認めるに足りる証拠はない上、右傷から細菌が侵入し、本件敗血証を発症せしめたと認めるに足りる証拠はない。

(三)  結局、以上のとおり、Dの手術創又は前記傷害部位から、本件敗血症の起因菌が侵入したとは認められないというほかはない。

2  その他の感染経路・機序について

(一)  Dの入院後の本件敗血症の起因菌(MRSAを除く。)の感染の機序については、①入院後手術前の諸検査・処置の過程で、(a)Dの身体を損傷し、院内の落下細菌又は細菌の付着した器具等の使用によってその損傷部位から、又は、(b)院内のいわゆるキャリアとの接触・接近等(右の者が使用又はDに装着施用した器具等を媒介とする場合を含む。)により、(c)空中浮遊菌の気道感染等により感染した、②手術中に①と同様の過程で感染した、③手術後、①と同様の過程で(特に、Dに装着・挿入したドレーンやカテーテルなどを通じ、逆行性感染によって)感染した等の可能性を想定することができる。

(1) まず、Dの身体が損傷され、その損傷該箇所から細菌感染した可能性(手術前後を通じて)については、松尾証言によれば、Dの入院後手術前には、直腸指診、ガストロ(胃カメラ)注腸、大腸ファイバースコープ、超音波・CT診断等を行ったとの事実が認められるけれども、これら諸検査の際又は手術時にDの身体に損傷を与え、細菌がその損傷部位から侵入した、又は細菌の付着した器具の使用によって感染したと認めるに足りる証拠はない。

もっとも、〈書証番号略〉によれば、手術後、Dに中心静脈カテーテル及び膀胱留置カテーテル(以下「尿カテ」という。)を装着・挿入したこと、Dが手術後に病棟内を歩き回った際、中心静脈カテーテルを装着したまま、その点滴台を押して行動したこと、五月二九日午前九時三〇分ころ、尿カテに血性分泌物が少量付着していたこと、午後四時三〇分には、Dが、自分で尿カテを抜去してしまい、血尿があったこと、午後五時一五分及び翌日にも亀頭部からの出血があったことがそれぞれ認められる。しかし、〈書証番号略〉並びに松尾証言によれば、Dに装着した中心静脈カテーテル及び尿カテの培養検査の結果は、いずれも陰性であったこと、六月四日時点の尿の検査でも、陰性であったことが認められる。右事実に照らして考えると、先の認定事実から直ちに中心静脈カテーテルを介して、又はDが尿カテを抜去して尿道が傷つき、該箇所から細菌が侵入するなどして尿カテや尿道を経路として感染したと認めることはできず、他にこれらの事実を認めるに足りる証拠は存しない。

(2) さらに、検査や手術・治療等の機会以外について判断するに、左側頭部の傷については、前示のとおりであり、その他の機会にDが受傷し、その創口から細菌が侵入したことを認めるに足りる証拠は存しない。

(二)  MRSAの感染について

(1) 被告の主張1(一)の事実は当事者間に争いがなく、右事実、前示2(一)(1)の事実に、〈書証番号略〉並びに松尾証言によれば、六月四日に採取し、同月六日に結果の判明したDの喀痰培養検査で、MRSAが検出されたが、中心静脈カテーテル、尿カテ及び尿自体の培養菌検査ではいずれも陰性であったことからすれば、本件敗血症はMRSAの気道感染に起因する蓋然性が高いこと、MRSAその他のブドウ球菌は、保菌者を感染源として、医療・看護行為又は空中浮遊菌等が存する汚染環境を介して感染することもあること、腹部大手術後患者は免疫力が低下し、MRSAに感染し易いこと、被告病院においては、MRSAの感染防止のために特別の消毒体制は採っていなかったことがそれぞれ認められる。

(2) しかしながら、〈書証番号略〉並びに松尾証言によれば、

ア MRSA感染症は、病院内における医療・看護行為又は汚染環境を介する場合のみでなく、もともとMRSAを保菌していた者が、免疫力の低下などを契機として右菌が増殖し、発症することもあるし、また、人体の常在細菌であるMSSAが、抗生物質の投与によって、短時間で薬剤耐性を備え、MRSAに変化することもあるとされていること、

イ MRSAの感染と発症との間の通常の期間(潜伏期間)について、医学上の定見はなく、短い場合は、二、三日で発症するとするものもあるが、一、二週間後とするものもあって、アの事情をも考慮すると、本件において、発病時期によって、被告の病院内での感染であるとは、確定し難いこと、

ウ 被告病院においては、MRSAに対する特別な消毒体制を採ってはいなかったが、一般病院における標準的な消毒体制は採られており、日本化学療法学会、日本感染症学会での発表結果によって清潔度の高い病院として位置づけられていたこと、

エ 被告病院は、病床数四六床(すべて外科)を有する病院であるが、本件以外にMRSA感染症の死亡例はないこと、

以上のとおり認められる。

右認定の事実に照らすと、前示2(二)(1)の事実があるからといって、DがMRSAによって感染し、発症した経路は、不明というほかはなく、Dが被告病院においてMRSAに院内感染したとは、認めるに足りない(なお、Dが被告病院においてMRSAに感染した場合の蓋然性の最も高いのは、病院の汚染による気道感染であるが、被告病院の管理上病院内の消毒体制に過誤があって、右の汚染が生じたと認めるに足りる証拠はない。)。

三以上検討した結果によれば、本件全証拠によっても、本件敗血症の発生機序を特定することはできないというべきであり、そうである以上、原告らがDの死亡を原因とする損害の賠償を求めることは困難というほかない。したがって、原告らの被告に対する各請求はその余の点について判断するまでもなく理由がないからこれらを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九三条をそれぞれ適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官筧康生 裁判官深見敏正 裁判官内堀宏達)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例